蜘蛛は網を張って、獲物がかかるのを辛抱強く待つ。
とある野鳥は、わざわざ求愛の場を造り上げ、雌が来るのを待つ。
肉食の獣にしてもそうだ。いきなり襲いかかったりはせず、状況が整うのを待つ。
確実に得たいものがあるから、彼らはしたたかになることを躊躇わない。
「ありがとうございました」
馴染みの客が帰り、店内には涼しげなドアベルが鳴り響く。それに混じって聞こえてきた雨音に、藤咲明はどこか感慨深いような気持ちで顔を上げた。
ハーフと間違えられるほどの白い肌、明るい栗色の髪を店内の柔らかい照明が照らし、丁度外を歩いていた女性がショーウィンドウ越しに見惚れる。しかし当の明はまるで気づかない様子で、昼の日差しを遮る雨雲に目をやった。
決して、女性に興味がないわけではない。が、元々興味の範囲がとても狭く、しかも一度何かに興味を持ってしまうと、手に入れるまでは他を考えられなくなってしまう性質なのだ。そんな明だから、とある一人の女性が気になっている今は、誰かから秋波を送られても意識に引っかからなくなる。
「彼女を知ってから、もう九ヶ月か……」
ドアが閉まる間際、梅雨の湿っぽい空気を吸い込む。以前は苦手だったその匂いを好きになったのは、雨が『彼女』の存在を強く思い起こさせるからだろう。
彼女を初めて目にしたのは九ヶ月前、丁度今のようなしつこい雨が降っている日だった。
(あの時は、全然好きじゃなかったのに……)
はっきり言って、第一印象は「さえない女の子」だった。彼女が濡れた地面で派手に滑った老人を助け、自身の服や、顔まで泥だらけにしていたからだ。老人が詫びとして差し出していた謝礼金を断っている場面を見た時などは、感心するどころか冷やかな気持ちにすらなった。
無償の献身を見て感動できない自分を、相当捻くれた人間だと思う。思うが、口には出さないからいいか、とこれまで過ごしてきてしまった。
明は、偽善者が好きではない。厳密に言えば、いいことをした、と得意げになっている顔を見るのが嫌だった。理由を深く考えたことはないが、もしかしたら純粋な善意を否定された気になるからかもしれない。
とにかく、そんな勝手な理由で、明は彼女を好きになれなかった。
だが何の運命の悪戯か、はたまた「ひねくれた思い込みは捨てろ」との神の啓示か――再び彼女に遭遇した。しかも、また人助けをしている場面。
彼女はまたもや、自身の不都合など全く考えていないような素振りで、困っている人に手を差し伸べていた。純粋な、曇りのない笑顔で……。
(最初の頃は、馬鹿だなと思ったんだよなぁ。今の世の中、正直者とか、優しい人間ほど痛い目を見るのにって……)
先ほどの客が試しに履いていった靴を磨き、棚に戻しながら溜息を吐く。
我ながら性根が曲がっている。昔、留学先で仲良くなった友人曰く「明は外見は天使だけど、中に悪魔を飼ってるよね」とのことだから、他人からも認められた立派な? 根性曲りだ。
(というより、彼女が純粋すぎるんだよな、うん)
言い訳がましく一人納得して、違う靴を手に取る。目を閉じて頷いていたら、瞼の裏に彼女の笑顔が浮かんできて焦った。人に害を及ぼすほど性格が悪いつもりはないが、あの清らかな瞳の前では極悪人になった気がしてくるのだ。
(想像するだけでこれじゃあ、実際に目の前にきたら……)
妄想の中の彼女に見つめられただけで落ち着かない気分になって、不必要なまでに靴を磨いてしまうのだから、本人が近づいてきたら呼吸が止まってしまうのではないかと心配になる。
「はあ、馬鹿は僕だな」
そういえば、先ほどから同じ靴を三回も磨いている気がする……。
いい加減、革が擦り減らない内に思考を切り替えよう、そう思って店の奥に引っ込もうとしたら、
「あ」
求めていた姿が道路の反対側から近づいてくるのを見て、口を薄く開いたまま固まる。
彼女だ。毎日毎日、考えすぎて疲れてしまうほど考えている、明の想い人。
(今日はいつもより早く終わったのかな……)
明の恋路にとっては幸いなことに、彼女はよくこの店の前を通る。それに気づいてからは、何度店の入口のところでうろうろとしたか数えきれない。
これも親友の言葉だが、今の明を指して「動かないストーカー」だと言っていた。
まったく失礼な奴だ。物陰から見つめ続ける恋なんてよくあることじゃないかと反論しつつ、あながち間違いでもないと思ってしまって落ち込んだ。
(っと、こんなに見てたら気づかれるか)
本当は凝視していたかったが、今彼女に自分の存在を意識させるわけにはいかない。知らない男から熱く見つめられているなどと知られては、とある計画が失敗してしまう。
明は何気ない仕草で顔を逸らし、横目でちらりとショーウィンドウのほうを窺った。どきどきと乙女のごとく胸を騒がせながら、歌いたくもない鼻歌を歌って棚の上を整え続ける。
そうしてショーウィンドウの靴を眺めていた彼女が通り過ぎた後、ぼそりと呟く。
「……今日は六秒か」
実はここ数か月、彼女の身に着けているものや服装から考えて、ショーウィンドウや内装を変えた。さらには店の前で立ち止まっている時間を計り、日々微調整を行っている。クラシカルな店の雰囲気を崩さない程度の、しかし彼女の興味を引けるだけの改善――全ては、彼女の意思で入ってきてもらうための努力だ。
地味な努力だと友人には笑われたが、これには明なりの理由があった。
「早く別れないかな……」
彼女には、付き合っている男性がいる。だから明からは手が出せない。
幾度目かの遭遇で判明した時は、心底彼氏が羨ましくなった。きれいごとを抜かして言うなら、早く別れてしまえとすら思った。
こんな調子だから外見と違って優しくない、と言われるのだろう。本来ならば彼氏との幸せを願うべきだろうに、別れの時を今か今かと待っている。
「はは。別れたからって、僕のところに来てくれるわけじゃないのにな……」
一人悩んで自己完結してしまっているこの恋は、何の進展もないまま終わる可能性が高い。それでも、僅かな奇跡を信じずにはいられないのだ。
(もし、彼女が入ってきたら……)
きっと彼女を抱きしめ、唇を奪い、自分だけのものにしてしまいたくなるだろう。だが、いきなりは駄目だ。すぐに迫っては逃げられてしまう。獲物を狙う肉食獣のように、心も体も、確実に得られる距離に近づいた時にやっと……牙を立てなければ。
窓際に寄り、遠ざかる彼女の背中を見つめて告げる。
「……君が好きだ。こんな罠を、飽きもせずに作り続けるくらいに」
きらびやかなショーウィンドウの奥にあるのは――恋情という名の糸が張り巡らされた、密やかな罠。