ノエル・アルドナート
CV:佐和真中
SAMPLE VOICE 01
SAMPLE VOICE 02
あらすじ

「さあ、この美しい世界へ祝福を贈ろう――」


ティリア王国 アルドナート公爵家の娘であるあなたは隣国のラウルス王家に嫁ぐことが決まった。
そんなあなたの結婚を祝い、流行りの仮面舞踏会が開催される。
仮面を着け、煌びやかに装った男女が秘密の匂いを纏う、華やかな夜。
娘として自由でいられる最後の楽しい思い出になるはずだった――。

舞踏会は不満を持った平民たちの突然の乱入により、大混乱に陥る。
混乱の中控えの間に逃げたあなたがそこで見たものは
血まみれで倒れている公爵――父と、父を手にかけている腹違いの弟レオを目撃してしまう。

凄惨なその光景を見たショックで気を失ってしまったあなたは目覚めると兄・ノエルとともに軟禁されていた。


※本作は2種類のエピローグが収録されております。
お好きなエンディングを選んでお楽しみいただけます。

※本シリーズは全3巻で構成されております。
1巻ごとに完結しておりますが物語は繋がっておりますので、
3巻全てお聞きいただくとよりお楽しみいただけます。
キャラクター紹介
あなたの兄。アルドナート公爵家長男として誕生するも、生まれつき身体が弱く病気がちで現在は身体が許す限りの公務を担っている。
自身が病弱なこともあってか薬の知識が豊富。領内で感染病が流行った際にはそれに一早く気付き薬を配布するなどして貢献した。
温厚で優しく妹であるあなたをとても大切にしている。
世界観
【アルドナート公爵家】
ティリア王家の傍流で王位継承権を持つ。
近親婚を繰り返し行っていた家系であり、その結果狂気に堕ちた血筋として『血まみれ王妃』を輩出してしまった為、現在は近親婚の頻度が減っている。
過去に王妃を輩出していることから身分としては王家に次ぐが、『血まみれ王妃』の伝説によりアルドナート家の者が王位を継ぐことはない。

【血まみれ王妃】
400年前にティリア第四王子へ嫁いだアルドナート公爵家令嬢。
その美貌は国を傾けるとまで言われた絶世の美女。
第一、第二、第三王子が相次いで早世や失墜し、第四王子が王位を継ぐことに。娘が王妃となったことで公爵家の位階は一気に上がり、隆盛を誇る。
やがて王妃は狂気に堕ち、色香で骨抜きにした王を傀儡として王室を支配すると同時に圧政を敷き、民衆を恐怖で縛り上げた。
投獄と死刑が王都の日常となっただけでなく、王妃は自らの愉しみのために奴隷を嬲り殺すようになる。
そこから激化して若い男の生き血を集めて浴びたり、切り取った臓器や性器を瓶詰めにして収集したり、猟奇的な性倒錯者へと変化していったとまことしやかに伝えられている。

【ラウルス王国】
ラウルス王家が治めているティリア王国の隣に位置している国。
ティリア王国と同様に小国で、国力は拮抗。50年ほど前に起こった戦争を経て現在は和平を保っているが、
古い世代を中心に確執が残っており、薄氷を踏むが如くの緊張感がある。


相関図


発売日
2019年6月28日(金)
定価
¥2,420円(税抜価格2,200円)
JAN
4520424256600
品番
HBGL-018
シナリオ
高岡果輪
イラスト
一野
企画・ディレクション
黒抹茶
ジャンル
女性向けシチュエーションCD
(18歳以上推奨)
特典情報
ドラマCD SAMPLE
ドラマCD
バッドエンドアフター「理想郷」
※Hシーン有
ドラマCD SAMPLE
ドラマCD
ブロマイド
トラック6.5「調教」
※Hシーン有
ドラマCD SAMPLE
ドラマCD
ハッピーエンドアフター「永遠の檻」
※Hシーン有
ショートストーリー

常よりも高い体温でぬくもった上掛けの中で寝返りを打ち、籠もった空気を少しでも逃がそうと重い腕をのろのろと上げる。
「ふぅ……もう夕方か……」
丸一日ベッドの住人になっていた僕の吐く息は生ぬるく、身体中がだるくて不快だ。
発熱のせいで節々が鈍く痛み、思考までもがぼんやりと濁る。だが、これは死ぬほどの苦痛ではない。
(僕にとっては当たり前の日常だから、もうすっかり慣れてしまったけれどね)

ティリア王国始祖から分かたれた、もうひとつの王族とも呼ばれるアルドナート公爵家。嫡男、ノエル・アルドナート。それが僕だ。
だがこの身体はどうしようもないほど弱くて不完全な上に、生まれつき重い病に冒されている。
少しでも無理をすると倒れてしまうし、長くは生きられないと言われている。医者の見立て通りであれば、そう遠くない未来に僕の命は尽きるはずだ。
それもまた、この世界に生きる僕に定められた運命なのだろう。
どんなに残酷であろうと、悲観も諦観も自棄もない。絶望なんてしない。誰を恨むこともないし、何を呪うこともない。
(ただ、僕は僕にできることをするだけだもの)
貴き血を持ち、人の上に立つ者の役割は、生きとし生けるもの皆が幸せに暮らせる美しい世界へと導くこと。
そのために、僕はこの命のすべてを懸けて戦おう。
(――大切なあの子が、幸せであるように)

こつこつ、と不意にノックの音が響き、僕の祈りを中断させる。
細く開けた扉の隙間から、そうっと中をうかがうようにしながら顔を出したのは僕の可愛い妹だった。
「お兄様、起きていらっしゃる? お加減はいかがかしら……」
「ああ、ずいぶん良いよ。入っておいで」
僕には熱を帯びた吐息で淀んだように感じる室内も、彼女にはなんともないのだろう。v 静かな足取りでベッドの側まで来ると、心配そうに僕の顔をのぞき込んできた。
「わざわざお見舞いに来てくれたのかい? お前は優しい子だね」
「お兄様……」
うなだれた彼女の白い頬に、長い睫毛の影が落ちる。そんなささいなことすらも、見惚れるほど美しい。
「そんな塞いだ顔をしないでおくれ。お前の笑顔が見られないと、兄様は元気が出ないのだからね」
「でも、私の我が儘のせいでお兄様の仕事を増やしてしまったのではありませんか……?」
「ふふっ、違うよ。身体の弱い僕がこんなふうに寝込むのは、昔から珍しいことではないだろう?」
そう言って頭を撫でてやっても、優しいこの子は自分を責めてしまうのだろう。
娘でいられる最後の思い出に流行りの仮面舞踏会を催してみたいなんて、あまりにもささやかで可愛らしい願い事だというのに。

僕の妹は、もうすぐ隣国のラウルス王太子の元へと嫁いでいく。
市井の言い方を借りれば政略結婚というものなのだろうが、貴い血を持つ者として家名を繋ぐ婚姻は当然の行いだ。
僕たちに自由などない。それがアルドナートの名を持って生まれた瞬間から定められていることだし、課せられた義務なのだから。

「さあ、笑って。兄様はね、お前が喜んでくれることが何より嬉しいから頑張れるんだ。世界でいちばん幸せになって欲しいと願っているよ」
「ありがとうございます、お兄様」
身を起こした僕が明るく笑うと、ようやく安心したように彼女の顔にも笑みが浮かんだ。
「そうだわ、今日のお茶会で素敵なお菓子をいただいたの。これなら食欲のない時でも食べられるかと思って、分けておいたのよ」
宝箱でも取り出すかのように、彼女は小さな包みを丁寧に開ける。
そこに並んでいたのは、まさに宝石みたいに色とりどりに輝く砂糖菓子だった。
「リキュール・ボンボンか。綺麗だね」
「いろんな味があるのよ! こっちの赤いのは苺で、薄緑は甘瓜、それからね――」
ひとつひとつ楽しげに説明してくれる様子が愛らしく、病の苦しみなどこのひとときだけはすっかり忘れてしまう。
「ね、お兄様。どれがいいかしら?」
「お前のおすすめをいただくよ。選んでくれるかい?」
あ、と軽く口を開けて待っていると、彼女は白い一粒をつまんで僕の舌の上に乗せた。
「どうぞ、召し上がれ」
「ん……」
可憐な指先が口中から離れる前に、悪戯で唇を閉じてやる。
歯は立てないが、柔らかく食まれるのがくすぐったいのか彼女は微かに声を上げて笑う。
こんなじゃれ合いも、僕たち兄妹が幼い頃から何ひとつ変わっていないのに……大人になり、美しい娘となった彼女はアルドナート公爵家の姫君として役割を果たすために嫁いでいくのだ。
「ああ……美味しいね。これはミントとユーカリかな」
「熱っぽい時にはちょうどいいかと思ったの。すうっとするでしょう?」
砂糖でできた儚い薄衣が心地良く崩れ、中からハーブで風味付けられたリキュールが広がる。
口の中から喉へ、胸へ、涼風が吹き抜けていくような爽やかさにほっとした。

「お茶の席でいただいた時とても美味しくて驚いたから、傍らで控えていてくれたクロヴィスにも勧めたのだけど断られてしまったの。甘い物は嫌いなのかしら……」
「彼は自分の立場をよく弁えている正しき騎士だからね。近衛騎士団長としてお前を守っている任務中に、幼なじみのようにお菓子は食べてくれないよ」
「そうね……私、無理に勧めようとして悪いことをしてしまったわ」
素直に自分の非を認め、彼女は小さく肩を落とす。

彼女が気に入ったこのリキュール・ボンボンは、遠い国の土産で滅多に手に入る物ではない。
僕のところに持ってきた分とは別に、きっとクロヴィスの分も取ってあるのだろう。
もしかしたら僕たちの腹違いの弟……第二夫人の子であるユーリはまだ幼いからアルコールの入った砂糖菓子は無理だとしても、レオの分はきちんと用意してあるのかもしれない。……それが彼の手に届くかどうかはまた別の話だが。
素敵だと感じたものを、綺麗だと思ったものを、共に楽しめると嬉しい。喜んでもらいたい。
打算も裏表もなく、僕の妹は皆に喜びを分け与えることができる美しい心のひとなのだから。

「一週間後の仮面舞踏会までに、クロヴィスを呼んでお茶の席を設けようか。幼なじみ同士の席にするから、その時に出せばいいよ。レオは……同席させるのは立場上難しいから、彼の分があるのなら兄様が預かっておいて渡してあげる」
「まあ……!! すごいわ!」
心の中の願いを言い当てられたと、彼女は感極まったように瞳をきらきら輝かせる。
「ふふっ、そうだろう? 兄様は、お前のことなら何でもわかるんだからね」
「ありがとう、お兄様! 大好きよ!!」
「こらこら、レディが男性に抱きつくなんてはしたないよ」
「兄妹だもの。ふたりきりの時くらい構わないでしょう?」
私たちは家族なんだから、と彼女は信頼しきった様子で僕に身を寄せる。
空よりも広く海よりも深い、大いなる親愛と信愛。血の繋がった僕たちの間にある、確かな愛情。
誰よりも近しい、同じ血を持つ兄妹。
たとえ死が二人を別とうとも脈々と続いていく、決して切れない僕たちの絆。

「ああ……お前が妹で本当によかった」
「うふふ、お兄様ったら子どもの頃からそればかりね」
「だって、自慢の妹なんだもの。お前の兄であることが誇らしいよ」

すべらかな頬同士をすり合わせ、僕は愛しい妹に香り高い雫が入った甘い菓子をねだる。
「もう一粒、もらえるかな」
「ええ、どうぞ」
 彼女は次に明るい黄色の粒を選び、僕の唇に含ませる。その果実が初めての口づけの味とは、いつ、誰が言ったのだろう。
しゃり、と砕けた砂糖菓子から、甘酸っぱい檸檬の味が僕の中に染み渡っていった。


【7days ago】END

ようやく熱も下がり、僕は溜まった公務を片付けていく。
次の訪問先である教会を訪れると、神父から大仰に出迎えられた。
……歓迎しているのは、僕自身なのかアルドナート公爵家からの莫大な寄付金なのかは判断できないけれど。

「この度のご厚情感謝いたします。貴方に、神のご加護がありますように――」
目を閉じ、手を組み合わせ、神父は天上におわす神に祈りを捧げる。
僕の望む『幸せ』なんて、知りもしないのに。

「ありがとうございます。僕の行いが皆のために役立つのなら、この上ない喜びです」
「おお、なんと慈愛に満ちたお言葉……アルドナート領の民は皆、ノエル様の下で暮らせることを天よりの恵みと思うことでしょう」
従者たちが薬の入った箱を次々と運び込んできて、積み上げる。
「薬は高価なものだというのに、また民のためにこんなにも予防薬をご用意くださったのですか……なんとありがたい
「近隣の領地では、流感が猛威を振るっています。命を落とす者も多く出ているということですし、怖ろしい病から民を守らなくてはなりません」
公爵家の主導で、アルドナート領では流感の予防薬を安価で民に広めている。
それでも完全に病魔を防げているわけではないが、大きな被害が出ている他の領地に比べれば段違いの効果が上がっていた。

「病の苦しみをよくお知りのノエル様ならではのお優しさですね。死を厭わず、思いやりを失わない。ご立派にございます」
「ふふ……貴族でも平民でも病気の辛さは同じですから。こんな苦しみを味わう人は少ない方がいいと思っていますよ」
「我らの神はなんと残酷なのでしょう。ノエル様のような御方を早く天に召そうとするなんて……いいえ、それともノエル様が貴すぎるからこそ、己の御許に呼び寄せたいとお思いなのか」
お可哀想に、と涙まで浮かべながら、彼は僕を気の毒がる。
「ノエル様が次代の公爵様となられることを、領民の皆が望んでおりました。残念でございます……」

幼い頃に教会の医師に診断された僕の病はいずれ死に至るもので、不治のものとされている。
血液の病気だそうだが、原因も治療法も不明だという。
神学による治療やまじないを数え切れないほど受け、大勢の人に回復を祈られた。
だが、神の力は僕を救わなかった。
じわりじわりと病は僕の身体を蝕み、生命を削り取ってゆく。

公爵家を継げない僕を、皆が惜しんでくれる。
長く生きられない僕を、皆が憐れんで慰める。
尊く、美しく、儚い、神に愛された可哀想なノエル・アルドナート。……それが僕だ。

「ですが、貴方は悲しみに暮れる我らに微笑みかけた。貴きアルドナートの血が僕の病であるのなら、それも僕に与えられた試練。誇り高きこの血で、僕は正しき行いを成す皆を美しい世界に導く使命を受けたのだと……光の中で凜と立ち、仰った」
「……ふふっ、昔のことをよく憶えていらっしゃる」
「ええ、もちろん! 貴方は神の御使いにも等しき御方。死への絶望を希望に変え、我々に説いたお姿はひとときも忘れはいたしません」
ここを訪れる度に神父は涙ながらにこの思い出話を繰り返すし、街の人々にまで教えを講じている。
御使いとまで言われることは本意ではないが、彼の信仰にとって支えになるのなら善いことなので好きにさせていた。

「それでは、予防薬が皆に行き渡るようお願いします。代金も、暮らしが苦しい民にはできる限り融通してあげてくださいね」
「かしこまりました。慈悲深きノエル様の御心のままに、我らも尽力させていただきます」
領地の中で最も大きな教会であるここから、小さな町や村にある教会にまで薬は行き渡るだろう。
幸せを手にするために。正しく善き世界で、美しく生きるために。
人は皆、神や高次の存在から与えられた試練を超えなければならない。
僕もまた、同じく――試練に挑むのだ。

可哀想なノエル様。
可哀想に。
可哀想に。
可哀想に。

この世界では誰もが貴き僕を敬いながら、哀れみ、不憫がり、痛ましく思う。
卑しい者を見下し、蔑むのと同じ温度で。

(……大丈夫だよ。美しいお前を幸せにするためなら、僕は悲しんだりしない)

哀しみも、後悔もない。
僕は、お前と共に最も貴き血を持つノエル・アルドナートなのだから。

(どうか皆が正しき道を選び、美しい世界へ至れますように)

教会をあとにする前に、僕は目を閉じて神の像に祈りを捧げた。


【6days ago】END

今朝は忙しいので自室で飲み物だけを、と伝えたはずが、少し部屋を離れていた間にしっかりと朝食の席が調えられている。しかも二人分だ。
準備を終えたメイドを下がらせた後、僕を待っていた彼女は子どものように無邪気に笑った。
「お兄様、早くいらして。お茶が冷めてしまうわ」
「おやおや、僕がいない内にこんな用意をしてしまうなんて。いたずらっ子だね」
「ふふっ、驚いた? お兄様と一緒に食べたくて、お願いしたのよ」
僕とふたりきりの時だけに見せる甘え方。彼女は柔らかな唇の隙間からぺろっと小さく舌を出し、幼い頃と同じ表情で僕を見上げる。
公爵家の姫君としては少々はしたない振る舞いではあるが、この愛らしさの前では誰もが許してしまうだろう。

「僕の妹は、ずいぶん甘えん坊さんだ」
「だって、仮面舞踏会まであと5日しかないのよ。あと何度、お兄様と一緒にお食事できるかわからないんだもの」
それに、と小さく口をとがらせ、彼女は僕にだけ不満を漏らす。
「こうして押し掛ければお兄様には何とか会うことができるけれど、邸内にいてもレオやユーリとは顔を合わせる機会すらないのは寂しいわ」
「僕とお前は同じ血を持つ兄妹だから、年頃になっても会うことも許される。だけど、レオとユーリは違うだろう? 昔からの決まり事で、公爵家の姫君ならば当然のことだよ」
「二人とも弟だし、大切な家族なのに変な決まりよね……」

深窓の令嬢。尊きアルドナートの血族として、完璧な姫君として。
直系の娘は一定の年齢になれば、男性との接触を極端に制限される。
彼女が日常的に接することができる異性は、父上、同腹の兄である僕、第一の騎士であるクロヴィス。主にこの三人であり、基本的には使用人ですら女性で固められている。
まだ小さなユーリは第二夫人の元を訪れればたまに会うことも適うが、レオは社交界や公式の場で遠目に姿を見かける程度だろう。

(お前は知らないだろうけど、腹違いのきょうだいは結婚できてしまうんだよ)
高位のごく一部の者しか知ることはないが、同腹でさえなければ教会に金さえ積めば秘密裏に婚姻を許される。
……これは、古い時代にこの国で近親婚が盛んであったことの名残だ。

「私がラウルスに嫁ぐ前に、二人にも挨拶できるといいのだけど……」
咲き誇る花が小さな夜露を含んだように、彼女の表情に微かな陰りが落ちる。
結婚を祝う仮面舞踏会が終われば、ラウルス王太子との婚姻は目前だ。
これはただの結婚ではなく、ティリアとラウルスの二国を繋ぐ役割を担うのだから彼女の重責は計り知れない。
生まれ育ったこの国とは異なる、ラウルスの言葉や風習。王族となる立ち居振る舞い。歴史、情勢、政。
学ぶことは尽きることがなく休む暇もないというのに、婚姻前の挨拶で社交の場に日々出席しなければならないのだ。
マリッジブルーという言葉があるが、彼女が不安と寂しさで実兄の僕に甘えてくるのは仕方ないことだと思う。

「お前はとても頑張っているよ。大丈夫、兄様はちゃんとわかっているからね」
「お兄様……」
「心配なんてしなくていいんだ。お前は僕の自慢の妹で、誰よりも美しく、立派な姫君だもの。ね?」
僕は彼女の気持ちに寄り添い、温かく包み込む。
可愛い、愛しい、僕の妹の憂いが晴れるようにと。


■ ■ ■


妹との朝食を終えた後、僕は予定通り父上の部屋へと足を運び公務をこなしていく。
ここ数年の天候不順による凶作への対抗策や、税収の改善。各地で広まっている流感の抑止など。妹の婚姻準備に加え、考えなければならない施策は山積みだ。
「父上? どうかなさいましたか?」
書類をめくっていた父上の手が止まってからしばし経つ。おかしな議題でもあったのだろうかと、僕は声を掛けた。

「ああ……いや、あの子の結婚を祝う仮面舞踏会のことなのだが」
「準備は順調に進んでいますよ。招待客も多く、盛大な催しになると思いますが、何か気がかりなことでも?」
僕がそう問いかけると、父上は言葉を濁すようにして視線をそらす。
「お前が当主代理として出てくれないか、ノエル」
「ええ、もちろん構いませんが……僕でよろしいのですか」
「次期公爵といえ、ユーリはまだ社交界に出られる年齢ではないからな。お前が務めてくれるのなら私も安心だ」
彼の怖気と葛藤が手に取るように伝わってきて、僕は内心で苦笑する。
娘を愛する気持ちは真のものだが、父上は矛盾した行いを止めることができない。

400年前に起きた血まみれ王妃の醜聞で、アルドナート公爵家の威光は穢れて堕ちた。
王国始祖の血筋ゆえにもうひとつの王家とも呼ばれてはいるが、今やそれは名ばかりのものであり王位継承権すら形式的なものにされている。
だが、今――あの子がラウルス王太子の元へ嫁ぐことで、アルドナート家は再び復興できる。かつての栄華を取り戻すことができるのだ。
(だからこそ、父上はこの結婚を強引な手腕で取り決めた)
たとえ娘にどんな結末が待っていようと、女性として最高の幸せは身分の高い相手との婚姻であると自分を納得させて。

(だけど……当家の復興を良く思わない者も多い)
妹の結婚が成功すれば、アルドナート公爵家の権威はティリア王家と並ぶ。ともすれば、父上の地位は王家を凌ぐこともあるだろう。
国家が関わる以上、直接的に婚姻を妨害することは難しい。……が、当主の暗殺なら?
答えは言うまでもない。あまりにもたやすいことだ。
それがわかっているからこそ、狙われ続けている父上は怯えを隠しきれない。

「せっかくの祝賀の席に父上がいらっしゃらないのはあの子が悲しみますから、こうしては如何ですか?」
僕は心からの愛情をこめて、父上に微笑みかける。
「控えの間からは舞踏会の会場となる大広間が見渡せます。そこから、あの子を見守ってあげてください」
父上がそこで見てくださっているとわかっていればあの子も安心します、と僕はにこやかに言葉を重ねていく。
「あの部屋は有事の際に避難する場所でもありますから、鍵を掛けてしまえば安全でしょう? まだ不安が残るようでしたら、護衛にクロヴィスを呼んで――」
「いや、彼はお前たちの第一の騎士だ。近衛騎士団長として、私ではなくアルドナート家すべてを守る任務から外すことはできない」
己の保身ばかりを考えるのではなく、父上は当主としての顔で僕にそう告げる。やはり、彼も貴きアルドナートの血脈を受け継ぐ者だ。
「では、レオを共に控えさせてはどうでしょう。あの子は僕の補佐としてよく働いてくれていますし、信頼しています。腕も立ちますから、護衛として問題はないかと」
納得したように深くうなずき、父上は僕の出す案を次々と書き付けていく。
舞踏会会場には精鋭の近衛騎士を配備し、主役の姫君を守る。
近衛騎士団長は警備の総指揮を執り、正門ですべての来賓を確認。
万一その目をかいくぐって侵入した暗殺者に備え、対象は分散した方が安全である。
館には有事の際に逃げ込む奥の間がいくつかあるので、母上は東側にある部屋で待機。第二夫人とユーリは西側の部屋で待機。
父上とレオは控えの間から仮面舞踏会を見守り、祝賀の意を伝える。

「なるほど……正式に出席させるより、レオもその方が気が楽かもしれないな」
「ええ、ぜひそうしてやってください。祝われるあの子も、見守ることができるレオもきっと喜ぶことでしょう」
「ああ、お前は本当に優しい子だな。ノエル」
僕はその言葉に、柔らかな微笑みで返す。

僕は大いなる愛情を以て、世界のすべてを等しく慈しむ。
この心に嘘偽りはなく、すべてを愛している。
愛しているからこそ、皆がすべて美しく在ることを願うのだ。

(特別な『愛』は、ずっとずっとひとつだけだもの)

僕のすべては――あの子のために。


【5days ago】END

少し無理をすると、この脆弱な身体はすぐ使い物にならなくなる。
多忙のあまり、昨夜はつい遅くまで仕事を続けたら……朝にはこの有様だ。
僕は常よりも高い熱を出し、またしても寝込む羽目になってしまった。

(これでも、昔よりは丈夫になったと思っていたんだけどね……)
重いため息を吐き、熱い身体を持て余していると、まるで大鍋の中でゆっくり煮溶かされているような気分になる。
決して沸騰させないように弱火で、くつくつ、ことこと。
どうせ人よりも遥かに短い人生ならば、いっそ火あぶりにでもして一息に終わらせてくれた方が楽なのに――なんて、小さい頃は病の苦痛が辛いあまりにそう願ったこともあった。
「でもね、今は一日でも長く生きていたいって思うんだよ。……お前が生まれてきてくれたから」
ひとりぼっちの部屋で、僕のひとりごとはひとりで見る夢の中みたいにひとりでにゆらゆらと揺れる。

そうだよ。僕は、この世界でただひとりの××だもの。

熱に浮かされた気分のまま、僕はくすくすと笑う。
なにも怖くない。楽しくて、楽しくて、たまらない。
「僕は、お前のために――」
ひとりきりのまじないのようだった僕の言葉は、ノックの音にさえぎられた。

「……はい、どうぞ」
僕は××の言葉から、いつも通りのノエル・アルドナートの声で応える。
ややあって、扉を開けたのは――僕の補佐を務めてくれている、半分の血の繋がりを持つ弟だった。

「お休みのところ失礼します。……入ってもよろしいでしょうか」
「ああ、大丈夫だよ」

彼――レオは、父上と娼婦の間に生まれた不義の子だ。
待ち望まれていた直系の嫡男……僕は、病弱で公爵家を継げる身体ではなかった。
こんな僕が生まれたせいで、正妻である母上は「一刻も早く正常な跡取りの男子を」と周りから強く責め立てられる。
4年の後にようやく懐妊したものの、次の子は女子で僕の妹だ。
早く、早く、次期公爵となる男子を。重圧に苦しみ続け、追い詰められた母はその頃すでにおかしくなっていたのかもしれない。
その後、娼婦が父上の子を――男子を産んだと知った時、烈火の如く怒り狂った。
汚らわしい売女の子を、貴きアルドナート公爵家の跡継ぎになどさせるものか。この家に招き入れるなんて絶対に許さない。
頑として首を縦に振らなかったのだが……年月を経ても新たな男子は産まれず、母上は折れざるを得なかった。

こうして、レオは僕の代わりになるため引き取られ、娼婦の母と共にアルドナートの姓を賜る。
母上の激しい怒りは解けることなく、女主人として統括する使用人たちにまで母子へ厳しく当たらせた。
幸いにも数年前に第二夫人が男子を授かったため、次期公爵はユーリとなったが、レオはアルドナートの軛から解放されない。
先の短い僕のスペアとして引き取られた彼は、幼いユーリに万一のことがあった時のためのスペアだ。
レオは常に誰かの陰として、代わりとしての一生を強いられる。
公爵家に引き取られるまでは高級娼館(メゾン・クローズ)で暮らし、娼婦たちの間で育ってきた卑しい出自の子だと貴族社会の中でひどく蔑まれていた。

(でも、レオは僕たちの弟だ。僕も妹も、そう認めているのだからね)
下賤の血を引いていようと、彼は決して愚鈍ではない。
完璧とまでは言えないが一通りの教養と礼儀作法は身につけているし、場を弁える分別もある。
壮健な肉体と、強い力を宿した眼差し。しなやかな若木を思わせるその体躯は、生気に満ちあふれていた。

「報告書と資料一式をお持ちしました。ご確認ください」
「量が多くて大変だっただろう? すまなかったね」
僕はレオから会議で使う書類の束を受け取り、ゆっくりと目を通していく。
今朝急に倒れたから、普段は僕がしている仕事をレオに任せてしまった。
公爵家に引き取られてから厳しい教育は受けたとはいえ、庶民出の彼には難しすぎる案件かと思ったが……なかなかのものだ。
(悪くはないね。これなら、僕が手を入れなくても充分通用する)
僕は羽根ペンを滑らせ、書類の表紙に認証のサインを入れた。
「うん、これで揃っているよ。いつもありがとう、レオ」
「いえ……」
「あとはこれを会議の場で報告するだけなんだけど、やっぱり僕が行こうか? あの場に君が入るのは辛いだろう?」
この後に行われるアルドナート領の諸侯たちとの会議が気に掛かるのか、レオの表情が曇る。
ここまでの準備を担ってくれただけでも充分すぎるほどの働きだ。これ以上は荷が勝ちすぎているだろう。
だが、彼はしっかりと僕を正面から見つめた。
「レオ……?」
「俺が行きますから、ノエル様は休んでいてください。報告書を渡すくらい平気です」
「いいの? 助かるけど、無理はしないでおくれ」
「ノエル様こそ。お身体を第一に考えてください」
僕を慮る堂々とした物言いに、内心で賞賛を送る。
本当は、自分をあんなにも敵視して見下すばかりの席になど立ちたくないだろうに。
これは決して無謀な行動ではない。レオは己の力量をきちんと見定め、僕の代理を務められると確信を持っての発言だ。

「ふふっ、君がいてくれてよかったなあ。僕ひとりだと、未だ幼いユーリが公爵位を継ぐ頃まで手助けできないだろうからね」
「そんなことは……」
僕の冗談を冗談として流せず、レオは悲しげな顔になる。
貴族社会に酷い扱いを受けて、本心ではアルドナート家や父上に対する怒りや恨みがあるに違いない。
皆が噂するように、いつか僕たちに牙を剥く時が来るのかもしれない。
……だが、僕の目に映る彼はとにかく情に篤い。まったくもって、強がりきれないこういうところが未熟で可愛らしいのだ。
「でもね、大切な妹の花嫁姿を見られるまでは生きることができた。頑張ったよね、僕」
「まだまだ、たくさんの幸せを見なくてはなりませんよ。花嫁姿だけでなく、次は嫁いだ後に生まれる甥か姪を見てください」
「ああ……そうか。そんな楽しみもあったね! レオは賢い子だ」
レオはおどけたように笑う僕の背を支え、そっとベッドへ寝かせてくれる。
ひどい頭痛と目眩でもう起きているのも限界だったので、僕は素直に彼の手に身を任せた。

「じゃあ、行ってきます」
「……ありがとう。よろしく頼むよ」
部屋を出るレオの背を見送り、僕は目を閉じて深々と嘆息する。

(ああ、いい子だね、レオ。こんなにも美しい心を持つ君なら……僕たちと共に来てくれるかな? 来てくれるといいなあ)

僕は彼の賢さを実に好ましく思っているし、代え難き人材だと判断している。
(僕はこの命を懸けて戦うから、君も超えておいで)
今は辛いことばかりだろうけど、もうすぐだ。
もうすぐ君は、楽になれる。

「可愛い、可哀想な、僕たちの弟。君が来てくれたら、きっとあの子も喜ぶよ。ふふっ」

また熱が上がってきたのか、身体中が痛んで息をするのすら苦しい。
だけど、僕は上機嫌で幼い頃に妹へ教えた歌を口ずさむ。
熱っぽく掠れて乱れた歌声は、誰の耳にも届くことなく溶けていった。


【4days ago】END

20年前の帳簿が見たいなと漏らすと、さっと立ち上がったレオは自ら資料庫の地下へと潜っていく。
ひとりごとにもならぬような僕の呟きを聞き留めたこともすごいが、「探してきます」とすぐさま立ち上がって探しに行ったのは驚いた。
「わざわざ自分で行かなくても、使用人に命じればいいだけなのに」
仮にもアルドナートの名を持つくせに、そこに思い至らないのがいかにも彼らしい。
まあ……母上の不興を買いたくない使用人たちはあの母子が追いやられている離宮に近寄りもしないのだから、そういう意識がなくても仕方ないのかもしれないが。

しばらく待っていると、帳簿を持ったレオが階下から戻ってきた。
ホコリまみれになって幾度も咳き込む彼の体調を気遣ったり、流感の予防薬をきちんと飲んでいるかを確認したりと雑談を交わした後……僕は今日の本題を切り出した。
「…………ねえ、レオ。昨日の会議のことを父上から聞いたよ」
「っ、すみません……俺……」
よほど動揺したのか、普段は上手くできている貴族らしい言葉遣いが乱れている。
僕が小さくため息を吐くと、レオはまるで叱られた子どものように表情を曇らせた。

昨日は公爵家の領地をそれぞれ治める諸侯たちとの重要な会議があったのだが、僕が高熱で寝込んだためレオに代理として出席してもらった。
議題や報告する内容、回答については事前に資料を揃えていたし僕が確認もしていたから、問題ないだろうと思っていたのだが……。
レオは特権階級ならではの発言をする諸侯たちを真っ向から否定し、自分の考えた施策で言い負かしてしまったのだ。

「謝るということは、自分が悪いことをしたのだと理解しているんだね」
「勝手な発言をしたとは、自覚しています。でも……!」
「間違ったことは言っていないと?」
「はい」
顔を上げ、レオは僕の目をみつめてしっかりとうなずく。
圧倒的強者である僕の前でも必要以上に萎縮することなく、だが無謀な態度で傲慢に振る舞うこともなく、彼は彼のまま相対できる。それはもう一種の才能だと言っても過言ではないだろう。
(やはり、君はいい子だね。これからの世界に必要な人物なのだから、試練を超えてゆけるようもっと頑張ってもらわなくては)
思わず笑みが浮かびそうになるが、意識して口元を引き締める。
現アルドナート公爵補佐という『今』の僕の立場と役割では、彼をきつめに叱っておかなければならない。

「……そうだね。確かに、君の意見は正しいものだった。だけど、君はあの場で無能な諸侯をやり込めて、自分が気持ちよくなりたかっただけではないのかい?」
「そんなことは――!」
「ない、と言い切れるのかな。妾の子といつも蔑まれていた君が反撃できる絶好の機会だ。さぞ楽しかっただろう」
「……ッ!」
厳しい言葉をわざと選び、彼のした失敗を理解させる。
レオの発案自体は財政を立て直すには有用なものだし、僕も父上も高く評価している。
だが、それは長期的な再生策であり、アルドナート領の状況がひどく不安定な今つきつけるべきではないのだ。
主である公爵家に喜んで傅くよう、叛意を持たぬよう、逃げられないよう囲い込む。
諸侯の持つ権力、財力、影響力、全てをうまく操ってこその統治だと、真っ直ぐなこの子は学ばなければならない。

「君は正しいけれど、正論をぶつけることが常に正解ではない。あれでは要らぬ火種を生んで、公爵家への反感を募らせるだけだ」
しっかりと咀嚼して自分の血肉にするかのように、レオは僕の言葉を真剣に聴いている。正直な気持ち、胸の内では反論したくてたまらないだろうに。
「我ら血族にとって最も大切なことは、誇り高きアルドナートの血筋と家名を守ること。君は直系として認められてはいないが、仮にでもアルドナートの名を冠するのであれば立場を弁えなさい」
「…………はい。申し訳ありません」
一切言い訳もせず、泣き言も言わず、レオは潔く深々と頭を下げてくる。
本当に、賢い子だ。

彼が乱暴な行いをするのも、公爵家に敵意を持っているような振る舞いや言動をするのも、元々生まれ持った性格だけではなく計算の上だと僕は気付いている。
問題児の嫌われ者として軽蔑させれば、悪意を一手に引き受けられる。元娼婦の母親の分まで、自分が貶められる方法を選んだのだろう。
そして、父上をはじめアルドナート家を憎んでいることにしておけば、自分が公爵位を継ぐことに興味はないのだと表すことができる……とでも考えたのだろう。
(僕やユーリに対して害意はないというアピールのつもりかもしれないけれど……不器用だよね、君は)
もっと上手く立ち回れば苦しまなくてすむのに、仮面の被り方が下手すぎるよ、レオ。

「やっぱり君は頭の回転が速くていいね。僕がいなくなった後も、ユーリの影となって支えてやっておくれ」
そう言うと、レオは僕に深く礼をしたまま確かにうなずく。
常ならば少し見上げる位置にある彼の頭が下にあって、僕はふとそれに気付いて手を伸ばした。
「ふふっ、髪に蜘蛛の巣がついているよ。取ってあげるから、もう少しそのままでいておくれ」
指でそっと払ってやると、レオは戸惑うような表情で顔を上げる。
「あ……ありがとうございます」
「気にしなくていいよ。少し休憩しようか、おいで」
僕は彼の背を軽く押して、テーブルへといざなう。そう……鞭の後には飴が必要だ。
ベルを鳴らし、メイドへお茶の用意をするよう命じてから、胸ポケットに入れておいた小さな包みを取り出した。

「これはね、君に渡すよう預かっていた物なんだ。開けてごらん」
「……? 飴、ですか?」
蓋を開けて中を見たレオは、どうしてこんな物をとでも言いたげに不思議そうな顔をする。
「妹から君へのプレゼント。色とりどりの宝石のようで綺麗だろう? あの子の好物なんだよ」
「へぇ……」
興味ないというふうだった眼差しが、妹の存在を感じた途端に別の感情へ満ちていく。
今、彼の心の中には砂糖菓子を通してあの子の姿が映っているのだろう。
「好きな色を選んで食べてごらん。甘くて美味しいよ」
「……はい」
僕の言葉に従い、レオは骨張った指で繊細な菓子を一粒つまむと口へ入れる――とほぼ同時に目を見開き、手で口元を押さえた。
「――――っ!」
「あれ? ど、どうしたの? 不味い?」
予想外の反応に僕の方が驚いてしまい、幾度も瞬きして彼を見つめる。
口の中に残った砂糖菓子をようやく飲み込んだのか、レオはふうっと息を吐いた。

「いや……その、噛んだら思ったより強い酒が出てきたから驚いて……」
「何色を食べたんだい?」
「えっと、この……緑色のを」
指さされたそれを見て、僕はレオの反応に合点する。……と、同時に、思わず吹き出してしまった。
「ふ、ふふっ、アニスだね。アブサンと言えばわかるかい? それは確かに、独特の風味があるよねえ」
他に美味しい味がたくさんあるし、同じ緑でも薄緑の方なら甘瓜の味だったのに、よりにもよって癖の強いものを引いてしまう彼の運の無さが可哀想で可愛らしい。

「ねぇ、どうしてその色にしたんだい?」
僕がそう問うと、レオは少し恥ずかしそうに視線を逸らしたけれど、はっきりと答えた。
「…………いちばん、綺麗だと思ったから」
「――!!」

彼の選んだ緑は――僕たちきょうだいが持つ瞳の色だ。
僕と、妹と、レオと。三人の繋がりを示すかのような鮮やかな翠。

(ああ……本当に、君って子は――)

声を上げて笑いたくなるが、微笑むだけで留め置く。
醜いものは滅びゆく。美しいものは、磨き上げられてより美しく在らねばならない。
――どうかこの輝きが失われることなく、さらなる高みへと至れますように。


【3days ago】END

先日の会議ですっかりへそを曲げてしまった諸侯たちの元を訪れ、詫びの挨拶をして回る。
そのくらいのこと何でもないのに、帰宅した僕を出迎えたクロヴィスはひどく不機嫌だった。
(まあ、確かに少し疲れてしまったけれどね)
なにせ、早朝から夜更けまで一日中移動に次ぐ移動だったのだから。
馬車から降りた途端くらりと目眩がするが、少しふらついた程度でかろうじて堪える。
あまり辛そうな素振りを見せれば、過保護な近衛騎士団長は僕を抱え上げて部屋まで運んでいってしまうだろう。

クロヴィスは僕と妹の第一の騎士であり、幼なじみでもある。
子どもの頃の僕は今よりもずっと身体が弱くて、ほとんどの時間をベッドで過ごしていた。
調子が良くてたまに起きられる時、妹とクロヴィスと僕との幼なじみの三人で過ごせる時間は本当に楽しかった。
……楽しいから、つい無理をしてしまってまた熱を出す。
ぐったりした僕を抱えて早足で部屋に戻るクロヴィスと、大きな瞳に涙をいっぱい溜めて必死に追い掛けてくる妹と。
幼い頃のことを思い出すと、その光景がよく浮かんでくる。
(ああ、懐かしいね……)
昔から、僕が少しでも具合を悪くするとクロヴィスが助けてくれる。そして、今もそれはちっとも変わらない。

昔のように抱えて運ばれることは辞退したが、心配しすぎて収まりがつかないような顔をしているので手だけを借りることにする。
剣を握る掌は大きくて力強く、骨張った指はごつごつと節くれ立っている。
彼の手は真っ白な僕のものとはまるで違っていて、凛々しくて雄々しい。
(ああ……君は本当に綺麗だね、クロヴィス)
僕は、氷の騎士団長とも評される彼の横顔をちらりと盗み見る。
すらりと伸びた背と、鍛え上げられた体躯の美丈夫。
世の姫君が皆憧れる、絵本の中にいる理想の騎士が現れたような姿だ。
あの子だって、例に漏れず小さい頃はクロヴィスに夢中だったのだから。


「はぁ……さすがに今日は疲れたよ」
自室まで送り届けられ、ソファに座って一息つく。重い上着を脱ぎ、首元まで締めつけるタイを緩めると、さすがにほっとした。
「つい先日も寝込まれたばかりなのに、レオの不始末のせいでこんな――」
「弟の失敗は兄が償って当然だもの。僕が出向いて頭ひとつ下げれば、皆機嫌良く公爵家へ従ってくれる。このくらい何の苦でもないさ」
クロヴィスの苦々しい呟きが耳に届き、僕は宥めるようにしてやんわりと微笑みを向ける。
「僕は大丈夫だから、どうかレオを責めないでやっておくれ。クロヴィス」
「しかし、ノエル様……!」
僕がレオの尻拭いをすることがおかしいと思っているのだろうが、僕――ノエル・アルドナート自身がわざわざ脚を運んでやることが重要なのだ。
四角四面で真面目なクロヴィスは、こういうところで融通が利かない。
それも彼の美徳ではあるのだが、正しさと理想を凝り固めた人形のようで少しつまらないなと思ってしまう。
(うん……ちょっとだけ、つついてみようかな?)
誰よりも正しき、善き騎士団長様の違う顔を見たくなって、僕は敢えてレオの話を続けてみる。

「レオはね、自身の役割を果たしているだけなんだ。あの子はとてもいい子だよ」
さあ、どういう反応をしてくれるかなと思いながら、クロヴィスの表情をそっとうかがう。
「仮面舞踏会が催されると知ってすぐ、招待状もまだレオの元に届かない内からマダム・フローラが彼の礼服を新しく仕立てただろう? ユーリが生まれてレオが公爵家を継げなくなったから、どこか領地持ちの娘と結婚させて爵位を得させたいとマダムは必死なのさ」
皆からマダム・フローラと呼ばれているレオの母の思惑。彼女が息子に望む役割。
彼が社交の場で必要以上に着飾らせられる理由には気付いていなかったのか、クロヴィスははっとしたように小さく目を見開く。
「可哀想に。社交界なんて窮屈な場所は大嫌いだろうに、レオは誰からも求められる役割を立派に果たしてくれる。まあ、マダムの思惑通りに結婚相手を選ぶつもりはないようだけどね」

(さあ、ヒントは与えたよ。この後、君はどんな答えをくれるかな?)

さながら、試験官にでもなったような気分だ。この回答次第で、僕はクロヴィスを見定めようと思っているのだから。
僕は彼の瞳をじっと見つめ、決定的なものとなる次の問いを言葉にした。

「レオの存在は、アルドナート公爵家にとって必要なものだよ。……何故だかわかるかい、クロヴィス?」
「…………はい」
深く考える多少の間はあったが、逡巡した様子はない。
クロヴィスはしっかりと首肯し、僕の視線から逃げることなく口を開いた。

「自分より下のものをただ殴れば虐待だが、自分より上のものの失態を正義という名の大義名分で殴れば正しい行いとなる。それが見た目や生まれ育ちなど、本人にどうしようもできないことであればいくらでも殴り続けることができる」

おや、と僕は内心での昂揚を隠しきれない。
どんな時も正しく、綺麗な、民の理想を体現する騎士。
彼の口から、まさかこんな回答が得られようとは。

「レオは公爵家への負の感情を一手に向けられるための生贄。御しやすい貴族の存在共々、合わせて必要悪だとお考えなのではありませんか」
「……!」
見事なまでの答えを返され、僕は心の中で彼に拍手喝采を贈る。
素晴らしい。なんて、面白いんだろう。

「……っ、ふふっ、君がそこまで答えてくれるとは思わなかったよ。あははっ」
笑いを堪えることができず、僕は身を折って腹を抱える。
(彼がレオに対して複雑な感情を抱えていることは知っていたけれど、ここまで人間臭いものだったとは)
可笑しくて可笑しくて、どうにかなってしまいそうだ。

ねぇ、クロヴィス。氷った池の下で魚が生きていられるのはどうしてか、君は知っているかい?
それはね……水が動いているからだよ。
水がもっとも重くなるのは摂氏4度の時。
仮面の如く池を覆う表面がどんなに厚い氷となっても、摂氏4度の水は底に深く沈み対流を起こしている。常に惑うかのように揺れ動くからこそ、凍り付かない。
――君も、そう。
氷の騎士団長の心は、すべて凍ってしまっているわけじゃないんだね。
騎士として善を成す、正しき者。民の規範となるその綺麗な理想の下に、こんなにも激しく渦巻き続けている揺らぎがあったなんて。
この世の誰かが定めた正義。世の理に縛られるただの騎士人形であれば、有用だが興味は惹かれない。
だが、君はなんと愚かで美しいのか。

「はぁ……いいね。君は僕の予想以上に完璧で、誰よりも美しい騎士だ。素晴らしいよ、クロヴィス」
「……おそれいります」
僕は素直にクロヴィスを褒め称え、近衛騎士団長としてレオと周囲の動きに注意するよう指示を出す。
アルドナート家に敵対する貴族たちが妹の政略結婚を妨害するつもりなら、レオを祭り上げるのが最も簡単だからだ。
(今はまだ、正しき騎士でいてくれて構わないよ)
仮面舞踏会の日までは、立派に務め上げてもらわなくてはならない。
君には、とても大切な役割を担ってもらうのだから。

「今は辛いだろうけど、僕がこの世界を変えるまでレオはきっと耐えてくれる。クロヴィスも共に来てくれるよね」
「ノエル様……?」
「僕の挑む道はとても難しく、困難を極めるだろう。ただひとつでも歯車が狂えば、弱い僕は簡単に負けてしまうもの」
戦うことは怖い。だけど、僕は決して逃げない。
世界でただひとりの××として、あの子のために――僕が生まれてきた意味はここにある。
「必要悪なんて存在しない、美しい世界となるように……僕はこの命と、僕という存在すべてを懸けて戦うつもりだよ」
「……っ、ご立派でございます」
僕の前にひざまづくクロヴィスの肩に手を置き、決して抗えぬ言葉で彼を縛る。
「頼りにしているよ、クロヴィス。どうか、妹を守っておくれ」
「この命にかえても、必ず――!」

どうか、君も試練を超えてきておくれ。
ずっと一緒だったんだもの。これからも一緒に……共に、至れることを心から祈っているよ。
僕たち兄妹の第一の騎士――クロヴィス・オルランディ。


【2days ago】END

「さあ、クロヴィス。こちらに座っておくれ」
仮面舞踏会の前日と鳴ってしまったが、僕は妹との約束を果たすため庭園にお茶の席を用意した。
……が、彼からの応えは見事に予想通りのものであった。
「申し訳ございません。私は遠慮させていただきます」
第一の騎士である上に幼なじみでもあるのだから、遠慮する必要などないというのに、クロヴィスは僕の申し出を丁重に辞退する。
君ならそう言うだろうなあと思っていたし、むしろすぐに着席しないところが君らしいし、そこが好ましいから良しとしよう。
それに、こちらには君を同席させる手などいくらでもあるのだから。

「どうしてもと固辞するなら、僕は主として命令しなくちゃならなくなるけれど……そうはしたくないんだよ。君がいくら多忙とはいえ、お茶の一杯くらい付き合う暇はあるだろう? ね?」
「……かしこまりました。お言葉に甘えて失礼します」
ほら、簡単だ。
主として命じるまでもなく、少しねだってみせるだけで君は僕に折れてしまう。
(どうしようもなく、甘いよねえ)
……僕たち兄妹に忠誠を誓う君は、僕の願いを何でも叶えてしまうだろう?
だから、やっぱり君に任せようと思うんだ。
すべての鍵となる、重要な役割をね。

「実はね、君に頼みがあるんだ」
「頼み、ですか? 何でしょう」
「そう。命令ではなく、頼み事だよ?」
お茶を一口飲んでから、どこか居心地悪そうに座っているクロヴィスに微笑みかける。
「明日の仮面舞踏会なんだけど、父上は控えの間から見守ると仰っているんだ」
「では、護衛を騎士団の中から――」
「ううん、必要ないよ。レオを呼んでいるそうだから」
レオの名を出した途端に彼の表情が硬くなるのを見て、僕は楽しくなって思わず笑ってしまう。
近衛騎士団長の自分や騎士団員を差し置いて、レオが重用されることに対して騎士の矜持が傷付いたのか。
それとも、彼の内側に渦巻くもっと別の感情か。
さて、どっちだろう?

「表立って出席するよりはその方がレオも気が楽だろうし、父上の護衛も務めてくれる。あの部屋は限られた者しか鍵を持っていないし、有事の際の避難場でもあるからちょうどいいと思うんだ」
あまり苛めてやるのも可哀想なので、一応フォローを入れておく。
僕は嘘を吐かないし、これは本当のことだもの。
「護衛が必要ないのでしたら、頼み事とは……?」
「ふふっ、せっかくの父子の場だもの。二人が大切な妹を祝ってくれるのなら、とっておきのワインを用意してあげようと思ってね。今朝、セラーの奥から最高の物を選んできたんだ」
「…………」
僕がわざわざセラーの奥まで赴いたのを珍しく思ったのか、クロヴィスは少し驚いたような顔をする。
「年代物だし、一日静かに置いて澱を沈めた方がいいだろう? 今は僕の部屋に置いてあるんだよ」
お茶が冷めてしまうのに、クロヴィスは手をつけようとしない。
目線でそれを咎めると、渋々といったふうに彼もカップに手を伸ばしてくれた。
「アルドナートの紋章が入った特別な物だから、信頼できる人に任せたい。明日、君が控えの間に持っていってくれるかな」
「はい。私でよろしければ、承ります」
生真面目な彼はどこまでも真面目な顔でうなずき、僕のささやかな頼み事をまるで命令のような強さで受諾する。
僕の騎士。あの子の騎士。
君なら、自分の役割を完璧に果たすだろう。

「ありがとう。頼りにしているよ、クロヴィス。それから……これを飲んでおいてね」
僕はポケットの中から流感の予防薬が入った小瓶を取り出し、彼の眼前に置く。
「私に配布されている分は、欠かさず摂っておりますが……?」
「追加だよ。君は身体が大きいからね、計算すると少し強めの物を摂取しておいた方がいいとわかったんだ」
かしこまりました、とクロヴィスは素直に薬を受け取る。
大切な結婚を控えた彼女の側に控える身なのだから、万が一にも流感に罹ってはならないと悟ってくれたようだ。話が早くて助かる。
レオと違い、クロヴィスは言いつけを守ってきちんと服用しているようだがどう見ても効果が薄い。
この薬が確実に効いてくれないと困るのだから、量を増やしておくに越したことはないだろう。

さて、そろそろ頃合いかと僕はメイドに新たなお茶の用意をするよう命じる。
(もうすぐ、心を浮き立たせたあの子がここにやってくる)
軽やかな足取りも、弾む息づかいも、上気した頬も、僕には手に取るように想像できる。
生まれた瞬間から側にいる僕は、誰よりもあの子を理解しているのだから。
「息を切らせてやってくるから、最高に美味しいお茶を淹れてあげて」
「……?」
僕の言葉に、クロヴィスは不思議そうに首を傾げる。
僕とふたりの席だと思っていただろうから、あの子が来たらどんな顔をするだろうか。
ああ、そうだ。クロヴィスがいればあの子も喜ぶだろう。
きっと楽しいだろうなあ。

さく、と芝を踏む軽い足音が近付き、騎士の習性か真っ先にクロヴィスが振り向く。
彼女の姿を視界に入れたのか、軽く息を呑む気配が伝わってきて……僕は嬉しくなって微笑んだ。
「お兄様、遅くなってごめんなさい」
「構わないよ。こういう時、美しい主役は遅れて登場するものだからね」
彼女が着席すると、大輪の花を飾ったようにテーブルがぱあっと華やぐ。まるで、温かな光が満ちていくようだ。
「明日の用意がなかなか終わらなくて……少しだけ、休憩で抜けさせてもらってきたの」
姫君らしからぬ早足でドレスの裾を乱し、半ば駆けてきたのだろう。
はしたないと咎めることは簡単だが、わずかに息を弾ませて頬を薔薇色に染める姿はとても愛らしい。
ここは幼なじみの席なのだし……最後の思い出でもあるのだから、多少は多めに見てあげることにしよう。

「陽射しはうららかで、爽やかな風が心地良い。幼なじみ三人で素敵なティータイムを……と思ったんだけれど、急ぎの書状が届いたようだから僕は失礼させてもらうよ」
椅子から立ち上がった僕は途中離席の非礼を詫び、悪戯っぽく片目を瞑る。
最初からそうするつもりではあったが、ちょうどメイドが言伝を持ってきたのだから嘘ではない。
「娘でいられる最後の思い出に、明日の仮面舞踏会だけでは足りないだろう? 初恋の人とお茶を飲む時間も必要かと思ってね」
「……! もう、お兄様ったら!」
からかうようにして言うと、妹の頬がさらに色づいて熟れるようになる。
ああ、本当に可愛らしい。

これは、僕から君たちへの贈り物。
初恋とはかくも美しいものだと、僕はちゃんと知っている。
儚くも、尊く、切ない。決して叶うことのない想いなのだからね。

ごゆっくり、と言い残し、僕は二人に背を向けて館へと戻る。
さくり、さくり、と芝を踏む足音が心地良くて、そのリズムに合わせて懐かしい歌を口ずさむ。
君は歌うことがとても苦手だったけれど、僕が教えてあげたこの歌を今も歌えるだろうか?
(忘れていても、いいよ)
何度でも教えてあげるし、歌ってあげよう。
君が試練を超えてたどり着けるのなら、何度でも――あの子と共に。


【1days ago】END

仮面舞踏会の当日、クロヴィスは約束の時間通りに僕の部屋を訪れた。
控えの間に持っていってもらうワインを指し示すと、その価値を一目で察したのか彼の表情が引き締まる。
さすがは名門士爵(ナイト)の一族オルランディ家の騎士であり、アルドナート公爵家の近衛騎士団長だ。
「あの様子だとデキャンタージュは父上が自らなさるだろうし、テーブルに置いておくだけでいいよ」
「はい、かしこまりました」
「今度レオにもワインの扱い方を教えてあげないとね。ふふっ、僕たちが皆幸せになれる美しい世界が訪れる時が来たら、揃って祝杯を上げよう」
僕は鏡の前で礼服のタイを整えてから、用意しておいた仮面を着ける。
こんなものひとつで本当に別人になれるわけではないけれど、今宵は煌びやかに装った男女が秘密を纏う舞踏会だ。
互いに素知らぬふりで火遊びを楽しみ、ひそやかなロマンスを味わう一夜の夢。
華やかな嘘と虚飾にまみれた夜だからこそ、真に美しいものを見極める選択には相応しいのではないだろうか。

「君はずっとその格好なのかい? クロヴィスも礼服を着て、会場で僕たちに付き従えばいいのに。せっかくの仮面舞踏会なのだから、今宵の主役である姫君と一曲くらい踊ってあげなよ」
「……いいえ。主の飾り物として華やかな席に出るよりも、外敵から公爵家をお守りすることが第一です」
舞踏会の方に顔を出すつもりはまったくないのか、クロヴィスはいつも通りの格好で飾り気ひとつない。
そう……あまりにも、普段と変わらない。
(やはり、鍛え上げられた騎士というものは身も心も強靱だね)
さてどうしようか、と考えたその時、クロヴィスが微かに声を上げた。

「つ……ッ」
「クロヴィス? どうかしたのかい?」
彼がとっさに額に手を当てたのを見逃さず、僕は内心で笑みを浮かべる。
何でもないと隠そうとするが、頭痛がするのだろう。
「少し診てあげよう。さあ、手を出して」
「大丈夫です。ノエル様のお手を煩わせるほどのことでは……」
「遠慮なんてしないで。君はあの子を守る大切な騎士なのだから、兄の僕から心配くらいさせておくれ」
僕は彼の手首を取って、脈を確かめる。
平常心を保っているようだが、僕にはわかる。規則正しいそれに、秘められた不穏な響きを感じ取った。
「熱も目の濁りもないから、身体の不調ではなさそうだね。ああ……でも、少し脈が速いか。何か気がかりなことでもあって、緊張しているのかな」
「…………」
「ふふっ、そうは言ってもこんな大がかりな催しで緊張しない方がおかしいか。僕だって、朝からずっと緊張し通しだもの」

僕は机の抽斗から薬箱を出し、その中から小さな錠剤と水の入ったグラスを彼に差し出した。
「頭痛薬だよ。液体と違って即効性には劣るけれど、その分長く効くからね。今飲んでおけば、ゆっくりと効果が続いて舞踏会が始まる頃には最も効き目が出ているはずだよ」
「……ありがとうございます」
遠慮するいとまも与えず笑顔で後押しすると、クロヴィスは素直に薬を飲み下してくれた。

「それでは、私は控えの間にこれをお届けしてから配置につきます。何かございましたらすぐに駆け付けますので、お呼びください」
「ありがとう。よろしく頼むよ」
「失礼いたします」
父上とレオに献げるワインを大事に抱えながらも、クロヴィスは綺麗な姿勢で騎士の一礼をする。
部屋を辞していく彼を、僕は手を振って見送った。
「うん。――また、後で会おうね。クロヴィス」
あとで、ね。
正義と理想を体現する騎士の中の騎士。綺麗で輝かしく……可哀想な聖騎士様。
すべてが終わったその後で、君にもまた会えますように。


■ ■ ■


「やあ、洒落た仮面がよく似合っているね。綺麗だよ、お姫様」
「お兄様もよくお似合いですわ」
今宵の主役をお迎えに上がると、茶目っ気たっぷりに微笑む妹はちょこんとドレスの両裾をつまんで女性の挨拶であるカーテシーを行う。
僕もそれを受けて優雅にボウアンドスクレイプを返すと、しばしの後にふたりで視線を交わしてくすくすと笑った。
「うふふ、仮面のせいかお兄様がまるで知らない人みたいだわ」
「そうかな? 僕はお前がどんな姿をしていても見つけられる自身があるよ」
僕は彼女の右側に立ち、そっと腕を差し出す。
「さあ、お手をどうぞ。誰よりもミステリアスで美しい姫君をエスコートさせてもらえるなんて、兄様は鼻が高いよ」
「ふふっ、ありがとうございます、お兄様。でも、少し褒めすぎではないかしら?」
舞踏会会場へ――僕と共に歩き出した妹は、賞賛を素直に受け取る高貴さを持ちながらも、頬を染める純真さを見せる。
「嘘偽りない本心だよ。僕が絶対に嘘を吐かないことは、お前ならよく知っているじゃないか」
「そうね。だから私は、どんな時だって世界でいちばんお兄様を信じているのよ!」
「光栄ですとも、僕の可愛い妹よ」
たとえ仮面に隠されていても、僕は愛しい妹が今どんな表情をしているのかわかる。
その心の内までも、奥深くまでも――同じ血を持ち、最も近しく結ばれている僕だけが理解できるのだ。

「ねぇ、お前は……人生は何で満ちていると思う?」
「え? 何かしら」
うぅんと小さく唸り、僕の謎かけに彼女は真剣に悩み出す。

とある者は、人生は苦しみに満ちていると言うだろう。
とある者は、人生は善と正しさで満たさねばならないと言うだろう。

「正解はわからないけれど、どんな人も幸せで満ちることができればいいなと思うわ」
「幸せ、か。お前は優しい子だね」
「とても難しいことだわ。誰かの不幸が誰かの幸せであったり、幸せの形はひとつきりじゃないんですもの」
彼女はゆるく首を横に振ってから、真っ直ぐに前を見すえる。
ラウルスへと嫁いでゆく、自分の命が皆の幸せに繋がると信じて。
「レオのこともそうよ。私たちは、お母様を諫めることすらできないんだもの」
「そうだね……」
脈々と続くアルドナート公爵家と、それに連なる大勢の者。
多数の幸せを選べば、どうしても犠牲となる者が必要となる。
でもね、きっともうそんな悲しいことはなくなるんだ。

ああ、神よ。天にまします神よ。
僕は公爵位を継げない負の存在だけれど、貴きアルドナートの直系として受け継いだものと誇りがある。
(この世界の幸せが歪な代物だから、不幸が生まれるというのなら――)
僕は真の幸せを、愛するお前にあげよう。


「今宵は最高に楽しい夜になるのだから、不安なんて忘れておしまい」
「仮面舞踏会、皆も楽しんでくださるかしら」
「ああ、来賓はもちろんのこと、クロヴィスはこの仮面舞踏会が成功するように警護で尽力してくれているし、父上とレオも控えの間からお前の幸せな姿を見守ってくれる」
僕は彼女の手にもう片方の自分の手を重ね、にっこりと微笑む。
「そう――皆が、祝福してくれるんだよ」
美しいお前の幸福を。
美しい世界で生きるお前の輝きを。

「ねえねえ、お兄様は? 人生は何で満ちていると思うの?」
無邪気な妹の問いに、僕は心からの笑顔で答える。

「愛であり、勝ちと負けさ」

さあ、皆、運命と戦おう。
僕も、戦いに挑む。
――この愛も命も、己のすべてを懸けて。


【on that day】END